【小説】エルザ 「腐蝕の聖女と死にたがりの騎士」2/8
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第2部 力の覚醒と、偽りの希望
3. 悪魔からのホットライン
その夜、宿の部屋でエルザは念入りに手を洗っていた。
水盆の水が、すぐに黒く濁る。どれだけ洗っても、手から漂う「腐敗臭」は消えない。香水を瓶ごと被っても、自分自身の鼻がこの臭いを捉えて離さないのだ。
「クソッ……! なんで落ちないのよ!」
ガシャン、と水盆を蹴り飛ばした時、荷物の中にあった通信具が鳴った。
不快な通知音。発信者は分かっている。
エルザの主治医であり、彼女を管理する「飼い主」。闇医者ヴィクターだ。
『やあ、僕の可愛いモルモットちゃん。ご機嫌いかがかな?』
通信具の向こうから、ねっとりとした男の声が響く。
「最悪よ。仮面の裏が蒸れてニキビができそう。……何の用? 今月の『抑制剤』なら、まだ残ってるわよ」
エルザは小瓶を見つめる。ヴィクターが作った薬。これを飲まないと、彼女の腐敗は全身に回り、彼女自身を土に還してしまう。エルザは生かされているのだ。
『つれないなぁ。今日は朗報があるんだ。君のその、触れるもの全てを腐らせる呪われた体質……それを「完治」させる手がかりが見つかった』
エルザの手が止まった。
「……は?」
『帝都の大聖堂。そこに安置されている古代遺物「無垢なる揺り籠」。文献によれば、それは生命の設計図を初期化する機能があるらしい。つまり、君を普通の、ただの女の子に戻せるかもしれない』
普通の、女の子。
その言葉の響きは、エルザにとってどんな宝石よりも甘美だった。
手袋をせずに、猫を撫でられる?
好きな服を着て、溶かすことなく着続けられる?
誰かと手をつないでも、相手を骨にしないで済む?
「……嘘じゃないでしょうね」
『僕が君に嘘をついたことがあるかい? ただし、急いだほうがいい。大聖堂には、あの「清廉の聖女アリシア」も滞在しているらしいからね』
アリシア。
その名前を聞いた瞬間、エルザの心臓が早鐘を打った。
幾度となく聞いた名、光り輝く本物の聖女。自分と同じ顔を持ちながら、自分とは正反対の「治癒」の力を持つ少女。
エルザの憧れであり、最も憎悪する対象。
「……行くわ」
エルザは通信を切った。
心臓が熱い。希望と嫉妬が混ざり合って、ドロドロとしたエネルギーが湧いてくる。
「盗み聞きとは趣味が悪いですね、騎士様」
エルザが振り返ると、窓枠に腰掛けたガラハドが夜風に当たっていた。
「聞こえてしまいましたので。……貴女、普通の人間になるつもりですか?」
ガラハドの声は、いつになく冷ややかだった。
「もし貴女が『腐敗』の力を失ったら、誰が私を殺すんです? 私との契約はどうなる」
ガラハドがエルザに同行している理由はただ一つ。
彼女の力が完全に覚醒した時、その最強の腐敗で、彼の不死性をねじ伏せて「完全な死」を与えてもらうこと。それが報酬だ。
「うるさいわね! 私の勝手でしょ!」
エルザは叫んだ。少女のような、駄々っ子の叫びだった。
「私は……私は、可愛い服を着て、街を歩いて、カフェでケーキを食べて、恋をしてみたいのよ! あんたみたいに死にたいなんて贅沢な悩み、知ったことじゃないわ!」
ガラハドはしばらく沈黙し、やがて肩をすくめた。
「……まあ、いいでしょう。古代遺物とやらが暴走すれば、その爆発で私も木っ端微塵になれるかもしれませんし」
「あんた、本当にブレないわね」
「信念(しにたい)こそが騎士の剣ですから」
ガラハドは窓から飛び降り、着地の衝撃で足首を複雑骨折させながら(そして即座に治しながら)言った。
「行きましょう、聖女様。帝都へ。貴女は生を得るために。私は死を得るために」
4. 暴走する恐怖と、羨望の眼差し
帝都への旅路は、困難の連続だった。
特に、国境の峠を越える際に出現した「動く森」――巨大植物型魔獣(トレント)の群れは、これまでの敵とは桁が違った。
「キシャァァァ!」
数十本の蔦が槍のように二人を襲う。
ガラハドが剣で薙ぎ払うが、切っても切っても再生する植物の生命力に押されていた。
「おや、こいつらの再生能力は私以上ですね。親近感が湧きます」
「感心してないで燃やしなさいよ!」
「生憎、火打石を忘れまして。……聖女様、お願いします!」
エルザは唇を噛んだ。
この規模の敵を腐らせるには、出力を上げなければならない。だが、出力を上げれば制御が効かなくなる。
(怖い。自分が怖い)
けれど、蔦がガラハドの胴体を貫通し、彼を宙吊りにしたのを見て、迷いが消し飛んだ。
「……消えろッ!!」
エルザが両手を突き出す。
黒い風が吹き荒れた。
効果範囲は、視界の全て。
襲いかかってきていた蔦が、幹が、根が、一瞬で灰色に変色し、水分を失って崩壊していく。
それだけではない。
周囲の岩盤も、空気中の塵さえも、「存在すること」を許されずに風化していく。
圧倒的な死の嵐。
数秒後。
そこには、直径百メートルに及ぶ巨大なクレーターだけが残っていた。
魔獣の森は消滅し、ただの荒野と化していた。
「はっ、はぁ……!」
エルザはその場に膝をついた。
恐ろしい。自分の手が、意思一つでここまでの破壊を生んでしまう。もし、これを街中で使ってしまったら? もし、愛する人に触れてしまったら?
「……素晴らしい」
震えるエルザの横で、ガラハドが恍惚とした表情で荒野を見渡していた。
彼は腹に風穴が開いたまま(徐々に塞がりつつあるが)、心底羨ましそうに呟いた。
「これほどの死の純度。これほどの静寂。……聖女様、やはり貴女は天才だ」
「……馬鹿言わないで。化け物よ、こんなの」
「いいえ。これは芸術です。ああ、羨ましい。あの木々のように、私も跡形もなく消え去りたい」
ガラハドは本気だった。
エルザが恐怖するその破壊力を、彼は希望の光として崇めている。
この狂った騎士だけが、世界で唯一、彼女の「毒」を肯定していた。
「……早く行きましょ。帝都はもうすぐよ」
エルザは立ち上がる。
早く人間になりたい。この呪われた手で、何も壊さなくて済むように。
だが彼女はまだ知らない。
帝都で待つのが、救済などではなく、彼女の出生にまつわるもっと残酷で、もっと救いのない真実であることを。
(第3部へ続く)




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